にほんごを教えることで食べている。
「にほんご を おしえること で たべています」
この一文を学生に見せたらどんな質問が飛んでくるだろう。
私のいうところの「学生」とは、外国語とし日本語を勉強している外国人留学生のことだ。
「日本語を教えること」つまり、日本語を母語としない人に、外国語として日本語を教えるということ。
「で、食べている」
「せんせい、日本語、たべますか・・・?」
ー「いいえ、食べません。」
「せんせい、“日本語をおしえること”は ばしょですか?」
ー「ああ、場所の「で」じゃありません。」
「せんせい、日本語、たべますか・・・?」
ー「いいえ、食べません。よく文をよみましょうか。」
「よく、って、なんですか?」
「よく文、って、なんですか?」
「しょうか、なんですか?」
これが私の仕事(=なりわい)だ。大げさではなく。
「日本語を教えること」は、だれでもできる。本当に。
日本語を母語とする人であれば、だれでもできる。
「Hello!!」
ー「あ、「こんにちは」です」
「oh..konnichiwa!」
これだって立派な「日本語を教える」ことなのだ。
しかしながら、それで「食べる」となるとちょっと事情が変わってくる。
「だれでもできることで食べていく」こと。
だれでも歌が歌えるならば歌手はより上手に歌う。
だれでも文章が書けるならば作家はより上手に書く。
だれでもアイロンができるならばクリーニング屋さんはより上手にアイロンをかける。
だれでも食べられるならばフードファイターは、超、食べる。
じゃあ、だれでも日本語を教えられるならば日本語教師は…?
日本語教師は、より上手に日本語を教える。
ずっとそう思ってきたが、本当にそうなのだろうか。
この仕事を始めて10年がたった今、ここいらでちょっと振り返ってみたい。
10年分「日本語を教えること」で出会った出来事、学生、日本語のナゾ。
それと共に現在も続いている毎日のあれやこれや、を、
日本語にうるさくなく、書いていこうと思う。
日本語と関係ないことばかりになってもそれはまた、ご愛敬。