「せんせい、ゴボウ、ゴボウ。」
講師室で授業の準備をしていた時のこと。
ひとりの初級クラスの学生が、
きょろきょろしながら部屋に入ってきてこう言った。
学生:あ、せんせい、すみません、ゴボウ、ゴボウ…
日本語教師になってよかったことの一つとして、
言葉に対する推理力が高くなったことが挙げられる。
学生のいろんな誤用に出会ってきたので、
本当は何を言いたいのか、ある程度推測がつくのだ。
例えば学生が「わたしのおにが・・」と言ったら「わたしの“兄”。」と訂正し、
「おねえが1人います」と言われれば、
頭の中では兄がおねえである可能性を探りながらも、
「“姉”が1人」と訂正する。
ちなみにこの推理力は仕事だけでなく、
以前入院中の祖父が入れ歯を外して話した際にそれを聞き取り、
見舞客に通訳するという形で大変に役にたった。
だがしかし、ゴボウである。
ゴボウ・・・
根菜だ。
いきなり入室してきた外国人学生が私に言ったのはあの根菜だ。
茶色くて、長くて、細いあの。
はてどうしたものか。
その様子からするに、彼女の言う「ゴボウ」を探してココに入ってきたのだろう。
まさかここが八百屋だと、
そして私を八百屋の店番だと思って言っているのではないだろうから、
なにかしらの語彙を「ゴボウ」と言い間違えているのは確かだ。
せめて「ゴボウ」の英語がわかればいいのだが、
絶対にそんな英語は知らない自信があった。
そもそも英語圏の人はゴボウを食べるのか?
そんなことを考えながら、私はとりあえず、
両手で長くて細いもののジェスチャーをしながら、
「・・・ゴボウ?」と聞いてみた。
学生: ・・・ゴボウ、ゴボウ・・・。
困った顔で繰り返しつぶやく学生。
どうするよ、これどうするよ、
と、名探偵が日本語教師の名にかけて推理をはたらかせていたところ、
彼女は言った。
学生: ・・・ピン、です。
私: がびょう かーーーい!!!
ゴボウ = かびょう
完敗である。
私はそっと彼女に画びょうを4つ、渡した。
日本語教師10年でも、まだ名探偵にはなれないようだ。
語彙そのものの意味だけではなく、語彙の「音」から推理することを
頭の中の探偵ノートに大きく書き込んだ。
さて明日は誰がどんなことを言いながら、講師室に入ってくるだろう。
にほんごを教えることで食べている。
「にほんご を おしえること で たべています」
この一文を学生に見せたらどんな質問が飛んでくるだろう。
私のいうところの「学生」とは、外国語とし日本語を勉強している外国人留学生のことだ。
「日本語を教えること」つまり、日本語を母語としない人に、外国語として日本語を教えるということ。
「で、食べている」
「せんせい、日本語、たべますか・・・?」
ー「いいえ、食べません。」
「せんせい、“日本語をおしえること”は ばしょですか?」
ー「ああ、場所の「で」じゃありません。」
「せんせい、日本語、たべますか・・・?」
ー「いいえ、食べません。よく文をよみましょうか。」
「よく、って、なんですか?」
「よく文、って、なんですか?」
「しょうか、なんですか?」
これが私の仕事(=なりわい)だ。大げさではなく。
「日本語を教えること」は、だれでもできる。本当に。
日本語を母語とする人であれば、だれでもできる。
「Hello!!」
ー「あ、「こんにちは」です」
「oh..konnichiwa!」
これだって立派な「日本語を教える」ことなのだ。
しかしながら、それで「食べる」となるとちょっと事情が変わってくる。
「だれでもできることで食べていく」こと。
だれでも歌が歌えるならば歌手はより上手に歌う。
だれでも文章が書けるならば作家はより上手に書く。
だれでもアイロンができるならばクリーニング屋さんはより上手にアイロンをかける。
だれでも食べられるならばフードファイターは、超、食べる。
じゃあ、だれでも日本語を教えられるならば日本語教師は…?
日本語教師は、より上手に日本語を教える。
ずっとそう思ってきたが、本当にそうなのだろうか。
この仕事を始めて10年がたった今、ここいらでちょっと振り返ってみたい。
10年分「日本語を教えること」で出会った出来事、学生、日本語のナゾ。
それと共に現在も続いている毎日のあれやこれや、を、
日本語にうるさくなく、書いていこうと思う。
日本語と関係ないことばかりになってもそれはまた、ご愛敬。